Buongiorno a tutti!
今日は3月に新著を出版されたばかりの音楽評論家・河野典子さんにオペラの世界についてお話を頂きます。
これを読めばオペラを聴くのが益々楽しくなりそうです!
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拙著(イタリア・オペラ・ガイド)を執筆していた間、長らくお休みをいただいていたブログへの連載を再開させていただこうと思います。
今回は、イタリア・オペラを語る上で欠かせない「ベルカント」という言葉について、今年2月に演奏会のプログラムに書いたものを転載します。
イタリアのベルカントとは何か。
私たちはイタリア・オペラやイタリア歌曲を優れた歌手を聴くと、「ベルカント歌唱の技術に優れている」とか「ベルカントが素晴らしい」などとよく口にし、また文章にもします。
しかし、その「ベルカント(bel canto)」を具体的に定義しようとすると、果たしてそれはとても感覚的で曖昧なものなのです。
今回はその「ものさし」を言葉にしてみます。
まず、「ベルカント・オペラ」という場合、これは19世紀前半に活躍したロッシーニ(1792~1868)、ドニゼッティ(1797~1848)、ベッリーニ(1801~35)らの作品群を、「ベルカント歌い」も同様に、この時代の作曲家の作品を得意のレパートリーとしている歌手のことを指します。厄介なのは「ベルカント」と独立して使う場合です。
「ベルカント」という言葉は、イタリア・オペラ(イタリアの作曲家によるイタリア語の)歌曲の歌唱テクニックを評価するときに使います。「ベルカント」という言葉とセットのようにして出てくるのが、「リネアーレlineare」や「スル・フィアートsul fiato」といったイタリア語の単語です。
「リネアーレ」に歌うとは、例えば一曲のアリアの中で、フレーズごとに切って新たに一から盛り上がり始めるのではなく、その曲の最初から最後までが一本の線(リネア=ライン)で繋がっているように、音楽の流れを途切れさせずに歌うことを指します。
とはいえ、潜水競技ではないのですから、もちろん歌手は息継ぎもしますし、休符では音をきちんと切ります。
一例として、プールで長距離を泳ぐ様子を想像してみてください。
上手なスイマーは、クロールで泳ぎながら水の中でフーッと息を吐き、ちょっと顔を横にあげて息を肺に入れることを何気なく繰り返しながら何キロでも泳いでいく、あの感じです。
詩の一節ごとに現れる違う山(ピーク)をそれぞれ別個に新たに歌うのではなく、歌い初めからその曲の終わりまで一陣の風が丘の起伏を撫でるように吹いていくように歌う、と言ったらよいでしょうか。
もう一つの「スル・フィアート」は、直訳すれば「息の上(に)」です。これは前述の風を息として、「息(=fiato)の上に(=sul)乗せて歌う」という意味です。
孫悟空を乗せたキン斗雲は、スルスルと風に乗って飛んでいきます。その雲に乗ってどこまでも自在に飛んで行く孫悟空が、いわばベルカントの「声」なのです。
イタリア人は、実は日本人とさほど変わらない体格をしています。ドイツや東欧圏のような分厚い胸板や大柄な身体には恵まれていませんので、自らの身体を振動させた声を劇場全体に響かせることは物理的に難しい。そこで劇場の空気を巻き込むようにして「省エネ」で、より遠くまで声が届くように工夫されてきたのが「ベルカント」の技術です。いわば必要に迫られて発達してきた技術なのです。そのためには深く息を吸って、体全体を、固めるのではなく、逆に筋肉を柔軟に使い、かつ胸から上だけの浅い呼吸による歌唱にならないための「息の支え(アッポッジョ=appoggio)」も必要になります。自然に呼吸し、喋るような状況をオペラの歌唱でも作り出すのが「ベルカント歌唱のテクニック」の最終目的地です。ですがその域に到達するまでの努力は、並大抵ではありません。
ベルカントとイタリア語の密接な関係
ベルカントにはイタリア語の特質が大きく影響しています。一例としてドイツ語とイタリア語を比較してみましょう。ドイツ語はイタリア語に対して圧倒的にS、T、Pなどの子音が多く使われています。言葉の頭に3つの子音が重なって存在することも多々あります。そしてその子音が明確に発音されなければ、言葉として聞こえてきません。それに対して、イタリア語は母音が主となる言葉です。(ふだん喋る言葉ではなく、クラシック音楽における歌唱法に限っての話ですが)イタリア語では、母音を響かせることが第一義となります。子音が母音の流れを邪魔してはなりません。さらさらと流れる小川である母音の水の流れを、楔を打つように子音が止めてはならないのです。イタリア語の子音は、流れている母音の上に木の葉で作った舟(子音)をそっと乗せてやるだけで、言葉として聴衆の耳に届きます。ところが、言葉を立てるべく「子音をしっかり発音しよう」とすると、子音が息の流れを遮断してしまい、その時点でベルカントの歌唱から離れてしまうのです。
息の流れを止めないことと、明晰なディクションのバランス
息の流れを言葉が邪魔しないことを最優先にしていたのは、スペイン出身の名ソプラノ、モンセラート・カバリエでした。彼女は、息の流れを邪魔しそうな場合に子音を言わないなど「声の美しさ」を何よりも優先しました。彼女のフレージングの長さ、上から下まで均一な音色はベルカント歌唱の見本でもあります。現在は歌手に、より明晰な発音が求められます。ベルカントの技術に立脚してそれができる一人が、今夜お聴きいただくエヴァ・メイです。レッジェーロ系のベルカントの名手には、他にもレナータ・スコット、ルチアーナ・セッラ、マリエッラ・デヴィーア……何人もの名前が挙がりますが、人の声は指紋と同じで、それぞれ声質が違います。メイの声はその中でも中身のギュッと詰まった音質を持ち、モーツァルトやバロック音楽のレパートリーにも向いています。それが彼女の生まれ持った声質なのです。歌手は自分の声に合ったレパートリーを選んで歌っていくのが本筋で、彼女はそれを守ってこれまでキャリアを積んできました。
その歌手の歌がベルカントと呼べるかどうかの判断基準を最後に一つお教えしましょう。聴いていて喉元がむず痒くなったり、聴き終わってこちらの身体が硬くなった感じのするときは、その歌手の呼吸が浅く、体に力が入って歌っている証拠。いい歌手を聴いたあとは、身体の中の、上から下まで息が自在に通って、気持ちよく帰路につけるものです。お試しあれ。
(東京プロムジカ主催2017年2月20日「エヴァ・メイ ソプラノ・リサイタル」プログラムより転載)
〈河野典子プロフィール〉
東京藝術大学音楽学部声楽科卒業。1982〜89年在伊。帰国後音楽評論家としてイタリア・オペラを主とした公演批評、来日アーティストのインタヴューなどを「音楽の友」「GRAND OPERA」などの各誌に執筆するほか、来日アーティストのプログラム執筆やCDライナー・ノーツの翻訳、NHK BS〈クラシック倶楽部〉の歌詞字幕などを担当。
2010年、東京都主催〈Music Weeks in Tokyo2010オープニング・シンポジウム〉(東京文化会館・小ホール)の司会を務めたほか、13年からはWOWOWのニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の公演番組〈メトロポリタン・オペラ〉に解説者として出演、また番組監修も務めている。録音・コンサートのプロデューサーとして現役歌手のサポートにも積極的に取り組んでいる。共著に『オペラ・ハイライト25』(学研)。2017年3月、イタリア・オペラ58作品の「あらすじ」や「聴きどころ」を詳説した『イタリア・オペラ・ガイド』(発行フリースペース、発売星雲社, 2017)を出版。またNHKFM「オペラ・ファンタスティカ」でも案内役を務めている。
〈過去のブログ〉
・オペラの世界3~マエストロ ファビオ・ルイージ~
・オペラの世界2~演奏家インタヴューの通訳~
・オペラの世界1~アッバードとの稽古は「芸術を創り上げる喜びの時」でした~